解説 禅の発想とは何か? 禅僧が我々のこころを打つのは、そこにごまかしのない、 ぎりぎりまで煮詰めた真実があるからだろう。ぎりぎりまで真実を煮詰める作業として、 厳しい自己修練があるのだ。
例えば坐禅、坐禅はひたすら坐って何かをひとつ、己のうちに真理を見いだすのが 目的なのであって、体を痛めつけたり理屈を覚えるのが目的ではない。だから真理を つかむ方法は坐禅だけには限らない。
労働を通じてでも、武道、芸道を通じてでも良い。 それによって掛け値なしの真実が見いだせるのであろう。
禅には多くの落とし穴があるという。 鉄舟の言う「なぞなぞに毛の生えた」禅が、まかり通っているから。
やはり絶対的な「無」こそが禅の境地なのであろう。オイゲン・ヘリゲル(ドイツの哲人) が書いた一節が「禅」を理解しやすく伝えている。
無になるというのは、単にそうなったと思い込むのではないこと、 無になり、実際に無に帰せられるのであって、 単に 自分を無意味な有と感じるのではないということ。
禅に於ける真の沈思に於ては、あらゆる思考と意欲だけではなく 感情までも一切を無に帰す・・・それを経験したことのない者には、 到底、「言い表すことができない」という事実をもすら、知ることもできない。
禅の書物には何故逆説が多く含まれているのか、参禅者が底無しのものを 思考をもって究めようとすることを最終的に断念するまでは、 それら逆説で自らを苛むのか、それらのことを理解するためには、 それらを自ら経験(体験)していかなければならない。
と記載されている。 だから不立文字 こんな事書いているから、未だ野狐利吉
「弓と禅」弓聖阿波研造に師事したドイツ人ヘリゲルが、弓道修行から「弓禅一如」 の境地を悟った。
弓道の「離れ」は「自然の離れ」でなくてはならない。この「自然の離れ」については 種々の解釈があって、現在の弓道理論では半ば否定されているらしい。しかし「離そう」 として離すのではなく、自然に離れていくというプロセス・・・的と一体という考え。
ヘリゲルには、この「自然の離れ」が納得できなかった。何度阿波研造に諭されても 【的に当てることへの執着】を払拭出来ないヘリゲルに、弓聖は夜の闇の中の的 (細い線香を中心に立てた)に2本矢を放った。
闇に向かって第1の矢が射られると、発止という音で火が消え、ヘリゲルは 矢が命中したことを知る。そして暗中に第2の矢が射られる。
ヘリゲルが矢を改めに行く。第1の矢はみごと的となった線香の真ん中をたち、 そして第2の矢は第1の矢に的中しそれを二つに割いていたという。
阿波研造は言う。
私はこの道場で30年も稽古をしている。
暗中でも的が何処にあるか熟知しているはずだから、
【1本目の矢が当たった】のはさほど見事な出来映えでもない。
とあなたは考えるであろう。
それだけならば如何にも、しかし2本目の矢はどう見られるか。
これは私から出たものでもなければ、私が当てたものでもない。
この暗さで一体狙うことが出来るものか、よく考えてごらんなさい。
それでもまだあなたは、狙わずには当てられぬと言い張られるか。
まあ、私たちは、的の前では
Buddaの前に頭を下げるときと同じ気持ちになろうではありませんか。
さすがの合理主義者ヘリゲルも阿波研造の技に恐れ入り、修行に励んだという。
この逸話には、余談があり、ドイツに帰ったヘリゲルが、このことを『日本の弓術』
という講演で語るまで、万人には知られていなかった。
かつてドイツ人の弟子「ヘリゲル」と弓道の師「阿波研造」の通訳をした日本人、
速記録を読んでこの講演の事実を知り、阿波研造の元に行きこのことを尋ねた。
すると・・阿波研造は笑って答えた。
「不思議なことがあるものです。『偶然』にも、ああいうことが起こったのです」と。
Zen IN DER Kunst DES BOGENSCHIESSENS
なるほど でした。21世紀も野狐禅している洋彰庵 奥が深い・・・・
2001-03/20も真理(しんり)は見解(けんげ)せず
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