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にんげんに対する考


【儒教:自然保護論】
哲学書などを要約(自己解釈)

Y2K-05-05:洋彰庵利吉



個々の生命は、【生命が生命を生み出して自らは消滅してゆく生命の連鎖】と【食物連鎖】の中にある。そしてその生命は、地球上に存在する様々な生命のネットワークの中で生きている。にんげんが生きていけるのは、日々の食材となって消滅してゆく生命(植物や動物)があるからだ。だから昔からいろいろな教えがある。現代風に言えば、こういうことだ。
1:人間(私=あなた)の生命を包み込んでいる過去から現在、未来へと続く「生命の生成と消滅の連鎖」について、地球上の生命の相互依存のネットワークを考えることであり、同時に、

2:通時的・共時的な生命の連なりの中で自分自身の生き方について考えることであろうか?このような思索のもとに生命倫理やエコロジー、癒しなどに関し、考えを深める時間を現代の人間は忘れていないだろうか?

にんげん学という項目を付けたのは、ヒトが自然界における共生と共存の意味を知り、ヒトが生と死の意味を知り、人間の欲望とテクノロジー等をヒトが上手にコントロールし、地球上に存在する様々なものと出来る限り仲よく長期に共存しようね。という考えを最近持ったからだ。

現代の自然保護の2面

自然保護の場面から考えてみよう。 現代の産業文明は、自然環境を猛烈に破壊してきた。だから、失われゆく自然を保護してゆかなければ人類に未来はない。この言葉は近年のエコロジーブームにのって世間に溢れている。失われゆく自然を保護せねばというとき、そこには異なる二つの思想が潜んでいる。「保全の思想」と「保存の思想」というらしい。

「保全」の思想は、自然環境をこのまま破壊してゆくと、将来人類が大変な危機に遭遇する。ひょっとしたら人類は滅亡するかもしれない。だから、自然環境を保護しなければならないのだ。この答えは、人間が危機に陥らないようにするために自然環境を守るのだという考え方である。つきつめれば、人間中心の自然保護論と言えよう。

対して、「保存」の思想は、自然の環境を保護する理由は人間のためになるからではなく、何千年もかけて作り上げられてきた原生林や、何十億年も経過した生態系の生命の連鎖、それ自体が大変貴重で価値をもっているから、それらの尊く豊かな自然を、人間だけの生活道具として処分せず、豊かな自然環境を尊重し、なるべく手をつけず保存してゆかねばならない。 この答えは、人間にメリットがあるか否かを切り離して、自然環境を、自然のために自然保護をする。人間非中心をめざした自然保護論と言える。


この二つの思想は、大方の人間の内部に共存しており、どちらの考えも論理としては理解可能である。人に自然保護の大切さを説くとき、この二つの思想を往復し論じる。まあどちらでもいいが この二つの思想は、その根底では、お互いに全く対立する本質をもっている。保全の思想でも保存の思想でも良い。自然のふところに包まれて質素に生きること。これが、にんげんの本来の姿である。


しかし、にんげんはきわめて利己的な動物なのである。利他的なシステムがほんとうに組めるのだろうか。孟子の言う「惻隠の情」に発する援助思想が出来るのだろうか。


以上2000-05/05 いずれ続く?かな







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