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【典座教訓 1〜11】

はじめに
典座教訓を記載するに当たり、典座教訓・赴粥飯法「講談社学術文庫980」を底本とし 道元・日々の生きかた - 佐藤 達全 (著)大法輪閣 (2001/12) や、最近発刊された NHK出版やニュートンプレスの書籍を参考にしました。 最後のページに文献として 記載しておきますが、安い、充実「文字だけですが」講談社学術文庫980の 石川力山先生の典座教訓と中村信幸先生の赴粥飯法は必読の価値があります。 比丘(ビク)や沙門(シャモン)の語義を含め、勉強になります。


1:典座の役割
禅林には六つの管理職がありますが、典座と言われる料理長は もっとも重要な役職で、昔から立派な修行僧だけがその任務に当たってきました。

修行僧達のために食事を作る調理という仕事は、最も純粋な仏道修行とも言えるでしょう。 家庭に当てはめると「料理人である主婦は道心が備わった高潔な修行僧(高士)」です。

道心の無い典座の役職は‘結局(畢竟)無益’です。

「台所大事」という言葉は、もう死語なのでしょうか? いづれにせよ 「食あっての健康維持(成道の為に今此食を受く)を説いているようです。


2:典座の心構え
『禅苑清規』「現存最古の清規」では料理をする時は気を使って、 季節感あふれる食事を供するように言っています。

料理の腕前ではなく、生命維持の食を作る上での心構えです。ですから 家庭の料理人であっても、食事を作るには道心(気づきの心)を以て、 「時季」の食材を調達してくる事も肝腎でしょう。 『禅苑清規』を良く読みましょう。


3:典座の一日の仕事1
典座の一日の仕事が具体的に書かれています。 昼食後に、翌日の朝の粥と昼食の材料の調達をするのですが、調達できた食材は、 自分の眼の玉(眼睛)のように大切に取り扱うこと。と書かれています。

食材を、“自分の眼の玉のように大切に取り扱う”なんて、 考えてもみたことが無い人がほとんどでしょう。

そして「六つの管理職達」庫司知事で献立の相談をします。 決定したら住職の居室や修行僧達の寮の掲示板に掲示します。

★   都寺(つうす)・監寺(かんす)・副司(ふうす)
★   維那(いの)・典座(てんぞ)・直歳(しっすい)



4:典座の一日の仕事2「仕事の実際」
翌朝の粥の準備等で米を研ぎや野菜を調理するのには、 人まかせではなく自分自身で入念に行なうことです。

料理の心得としては、苦い・酸い・甘い・辛い・塩からい・淡いの六つの味が調和し、 「軽軟浄潔」軽く軟らかで浄[淨]らかでサッパリと「如法作」法[理]にかなって丁寧に 調理されている、という三徳が備わるように努めましょう。

理想的料理についての重要な記述がなされています。 と同時に「軽軟・淨潔・如法」の三徳と六味の整備は 典座教訓だけにとどまらず、生活全般に及ぶべき理念をも説いていると思われます。


5:典座の一日の仕事3「自ら手を下す」
自らの手で米を研ぐ時は一粒の米をも洗い流したりせずに配慮しましょう。 研ぎ汁は無駄に捨ててはいけません。【研ぎ汁は粥を煮るのに使ったり、 庭木や畑にまいたり、洗濯に利用したり出来ます】

一粒の米も、そして米の研ぎ汁も無駄にしないで活用するという心がけを、 現代の子供たちにどのようににして教え伝えたらよいのか、を 教える親も教育者も工夫をこらす必要があるでしょう。

という教育者も親も現代っ子ですよね。

「典座(主婦)が襷をかけて実際に竈の前で働くことこそ、道心である」 「食事を造る時、典座は当然ながら直接自ら照らし顧みて行なえば、 おのずとまじりけ無く清潔な食事が出来上がる」という記述は、 おそらく日本でも昭和20年代後半頃までは、ごく普通の家庭の台所でも 見かけられていたのではないかと思います。

洞山禅師と雪峯和尚の間で交された砂と米の問答などですが、(米=善・砂=悪) 修行上 大切に取っておくべきもの(米・善)と、取り除くべきもの(砂・悪) と理解することもでき、洞山の質問を、「悪を調べて善だけ残すのか、 それとも善を調べて悪を捨て去るのか」となります。  この問答の解釈はいろいろ有るようなので機会があったら図書館などで 典座教訓新訳などを読んでみて下さい。

雪峯の答は「善悪というような分別を捨て去ります」とも解釈できますが、 米と砂は等しく命と知っていても、実際の人間である修行者は 米を食べるのであって、砂を食べるのではないという事実を ないがしろにするようでは、雪峯も未だ観念の域を出てはいない、 ということになるでしょうか? 


6:典座の一日の仕事4「仕事の手順と食器類の整理」
仕事の手順 台所の片付き具合「清潔と整理整頓」を説いています。

明日の粥のおかずの野菜も調えておきましょう。  当日の昼食に使用した調理道具をすべて丁寧に洗い、整理整頓しておきましょう。  次に、明日の昼食の準備です。米と野菜から異物を丹念により分けます。  入手できた限りの食材については、量の多少や品質の良悪を言ってはいけません。 そして選り分けている時、典座の元で働いている行者は竈の守護神にお経を唱え 供養をしましょう。

料理人としては質のよい食材を使いたいところですが、しかしいったん 食材を手にしたら、量の多い少ないを論じたり質の良し悪しを批評してはなりません。 ただ誠意をもって調理するだけです。 忌むべきは、顔色を変えて、材料の多少などを話すことです。 心と食材が一体になり精魂こめて典座の職務のなかで精進修行しましょう。


7:典座の一日の仕事5「物を大切に、時間を有効に」
典座は夜半12時以前は自らも修行に専念します。 真夜中零時以降は、頭を切り替えて朝の粥作りの仕度をします。 朝食を作り終えたら鍋などを洗います。 次に昼食のご飯を炊き、汁物を調理しますが、ご飯を炊く時は鍋を自分の頭だと思い、 水を自身の命だと思いましょう。

★ 「飯を蒸す鍋頭を自頭となし、米を淘りて、水はこれ身命なりと知る」

できあがったご飯は、季節に見合った入れ物に移し、飯台の上に置きます。 おかずや汁物の支度とご飯が炊き上がるのが一致すれば上出来です。

保温付きの電気炊飯器などは無い時代のことですから、美味しくいただく 特に気を使う温度の調節を述べています。


8:典座の心の用い方
典座たる者は、どのような食材を見るにしても、ありきたりの見方をしてはだめです。 すべての食材は生命体であり、その生命体をもって修行僧達の生命体を養うために 用立てる、という見方をしなくてはなりません。 食材の良し悪しや質によって自分の態度を変えるようでは、仏道修行者とは言えません。

★ およそ物色を調弁するには、凡眼をもって観ることなかれ、
★ 凡情をもって念うことなかれ、一茎草を拈りて宝王刹を建て、
★ 一微塵に入りて大法輪を転ぜよ。

【品物の良し悪しを追って心を変えたり、人に順じて言葉を改めたりするのは、 道人ではない】と、執着(愛着・憎悪)を戒める仏道修行上もっとも大切な心得をも、 料理論から発し展開しています。

先輩の典座和尚と同じ程度の食材を得たとして、先輩が普通の菜っ葉汁(苒菜羹・ふさいこう) を作ったのなら、自分は牛乳入りの上等な汁物(頭乳羹・ずにゅうこう)を作るほどの 気構えを持ちましょう。




9:典座の修行
前記の菜っ葉汁と牛乳入りの上等な汁物の例えを具体的に「ただひたすら坐る」に通じる 様な事が書かれておりました。省略し記載します。
容易なことではありませんが、雑念を払拭し、ひたすら調理に専念するなら、 食材をも生かし、それを食べる者達をも生かし、自分をも生かすことになります。

豊富とは言えない、そして高品位とも思えない食材を用いて如何に立派な料理にするかは、 調理人の腕の見せどころでしょうが、この問題は広く応用出来ます。

★ かくのごとく調和浄潔にして、一眼両眼を失することなかれ
★ 真理を見通す一隻眼と、現実を見据える両眼のどちらをも失ってはいけない。

あれこれ思索するだけで実行しない人には、自分への痛烈な批判だと思って 受け止めなければいけませんね。アイデアが大切という事でしょう。


10:典座の一日の仕事6「食事の数と量[過不足なく]」
翌日の昼食の下準備が終わったなら、使った道具類を整理整頓しておきましょう。 その後は、修行僧たちと共に参禅聞法に加わります。欠席してはなりません。 それが終わって典座寮「自分の居室」にもどってきたら、僧院全体の居住者の人数を確認し、 調達できた食材を皆に平等に配分出来るかに関して、よくよく検討工夫しましょう。

雲水の増減をも含めて、過不足なく全員が食事出来るように教えています。この章は 特に長く、事こまやかに典座「調理人」の心得を説いています。 別々の半粒米2個で一粒の米を供給等・・・飽食の現代人への戒めです。


11:典座の一日の仕事7「僧食の作法」
調理した食事は庫院「台所」の飯台の上に安置し、料理を送りだす前には、袈裟を身に着け、 坐具をしいて、僧堂のほうに向かって、焼香九拝する。

このようにして、終日典座の職務と参禅聞法に勤め、時を無駄に過ごすことなく、 自らの身命を仏身と成し、それをもって修行僧達に供養します。

一般的に換言すれば「自然の恵みの食材や電気やガスの力などに感謝し、 無事できあがった料理に感謝し、食べる人間の命を支えてくれることに 感謝の気持ちを持ちましょう」と言う事でしょう。

★ 仏法の名字聞き来たることすでに久しきも、僧食の事先人記さず。
★ 況んや僧食九拝の礼、未だ夢にも見ざる在り。
★ 国人思えらく、僧食の事、僧家作食の法の事は、宛かも禽獣の如しと。
★ 食法、実に憐みを生ずべし、実に悲しみを生ずべし。いかんぞや。如何、如若


   仏教がわが国に伝来し、かなり経過しているが先人たちは
   食事作法に関してを記録していなかった。
   だから僧食九拝の礼という丁重な作法は
   未だ夢にも見ることの出来ない作法であった。
   一般の人々は、修行僧の食事や、寺院(僧家)における食事を作る作法
   などの事は、あたかも鳥獣の食法と同じとでも思っている。
   実に憐れみを生ずるような、実に悲しみを生ずるような事態だが、
   どうしたものか。いったいどうのようにしたら良いものだろうか

このような道元の嘆きから、禅寺からの作法 → 茶の湯 茶道(ちゃどう)ですヨ・・・ が発展してきたとされています。





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