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【典座教訓13〜20】

13:『禅苑清規』に云(いわ)く「最高責任者の心構え」
昔のすぐれた典座達の教えと行跡は、まさに正統の仏道修行です。 このような典座の供養態度をもって、住持をはじめとして、どのような任務にあっても、 「ひたすら修行僧達に奉仕することだけを考え、貧乏などを心配することはありません。

一つの禅林において、最高責任者である住持と典座やその下働きの人達との間にも、 働きの違いはあるにしても、存在価値は同等です。また禅林の内と外も平等ですので、 出家と在家も同じ存在価値を持っています。

朝の粥と昼のご飯を二回調理するには、まさに精妙な心くばりを行き届かせ、 豊かな内容を持ったものでなければいけません。

修行僧達の生活に必要な飲食・衣服・臥具・医薬の四事の供養も、すべて不足させてはいけない。 という記述から読み取れます。

このような心がけで、家族がそれぞれを思いやるなら、家庭も一つの禅林なのですね。


14:食事供養の功徳
わずか一杯の米の研ぎ汁でも、釈尊に供養したため、ある老婆は生前中には至上な福楽の功徳を受けたし、 またアショーカ王「亜育王」は、病床最後の自分の食卓から半分のマンゴーを寺に喜捨して、 成仏の予言を授かった。 という昔の話の記載

仏のためには、虚しく心のこもっていない多くの供養をするよりも、真実の 心のこもった少しの供養が勝る。こういうことが人の行ないというものである。 という教えです。

★ 仏の縁といえども、多虚は少実にしかず。これ人の行なり。


15:食べ物の差別をつけない
いわゆる醍醐味という極上の料理を調理しても、それが必ずしも上等というわけでもなく、 菜っ葉汁(苒菜羹)を調理しても、それが必ずしも下等というわけでもない。 菜っ葉汁でも真心・誠実な心・清浄高潔な心で、醍醐味を作る時と同じ基準で作りましょう。

何を飲食しても、仏道修行一筋であれば、その修行者の口はまさに“竈のごとし”で、 “唯だ一つの仏法という大海の味だけになってしまう”のです。

★ ゆえは何ん、仏法清浄の大海衆に朝宗するの時は、醍醐味を見ず、
★ 苒菜味を存せず。唯だ一大海味のみなり。 いわんやまた道芽を長じ、
★ 聖胎を養うの事は、醍醐と苒菜とは、一如にして二如無きをや。
★ 【比丘の口竈の如し】の先言あり。知らずんばあるべからず。 想うべし、
★ 苒菜もよく聖胎を養い、よく道芽を長ずることを。賎しとなすべからず、
★ 軽しとなすべからず。人天の導師は、苒菜の化益をなすべきものなり。



16:人を差別の目で見ない
醍醐味と菜っ葉汁と同様に典座は修行僧達の資質の良し悪しや年齢を見て 囚われてはいけません。自分でさえ自分の落ち着き処を知らないのに、どうして 他人の落ち着き処を知ることが出来ましょうか。

自分の尺度で以て他人の間違いを見るのは誤ちです。老若の違いはあっても、また智慧が 既に有る者もまだ無い者も、三宝(仏法僧)の一つとしての僧宝という尊さにおいては全く同じです。


17:建仁寺の典座の実情
道元禅師が中国から帰国したのは1227年の秋頃らしく、帰国後は東山の建仁寺(京都で最古の禅寺) に身を寄せていました。そこで目にしたのが、ここでのお話です。

この寺では典座職を置いてはいたものの、それはただその役職の名前があるだけで、 典座に値する人間の実際の働きは全くなかったのです。 このような堕落した典座を見たから、道元禅師は『典座教訓』を書いたのかもしれません。


18:無道心者の典座の弊害
建仁寺の典座の批判です。
道心が無い人は、道心も徳も有る高輩にまだ会見したことがないのですから、 憐れむべく悲しむべきことでありましょう。それは宝の山海に入ったとしても、 何も得ないで帰ってくるようなものでしょう。

  典座というものは、仏道修行を目指す真実の心は起こしていなくても、 もし悟りを開いた師匠に出逢い、教えを受ける事が出来たのなら典座の役を 立派に果たすことが出来ます。 優れた師匠に出逢えなくても、もし深く心に仏道を求める志を起こしていたならば、 必ずや典座のつとめを仏道として成し遂げる事が出来るという事を熟知しておきましょう。

建仁寺の典座の場合はどちらも欠けているので・・・・省略。。。・・・

道元禅師の著にしては、批判や宝物の話などが出てくる一節です。 当時の建仁寺の体制や建仁寺の典座がよほど目についたのでしょうね。


19:中国の典座
中国の禅院の責任者達は、三種の心構えを持って働いています。
(1)他人の利益のために働くことによって、自分の利をも豊かにします。
(2)修行道場を興隆させる中で、自らをも高めます。
(3)すぐれた古人達に肩を並べ、追いこそうという気持ちの中で、古人の行跡を重んじます。


このような気持ちを持っていれば、自分を他人事のように見て自棄することなく、 他人のことを自分のように顧みて大切に出来るものです。

★ すでにもし他を利するがごとく、兼ねて自利を豊かにせば、
★ 叢席を一興し、高格を一新し、
★ 肩を斉しうし、頭を競い、踵を継ぎ蹤を重ぬ。

「三般の住持」=(三つの心構え)は、次の『典座教訓』の喜心・老心・大心とも関係しています。 これらの心構えは、修行共同体においてはもちろんですが、家庭においても応用できるものです。

古人も嘆いていたようで、【 人生の三分の二の年月は早くも過ぎてしまったが、 心をほんの少しも揩り磨こうとせず、ただ生を貪って日を逐ってあくせく暮らし終わる。 いくら喚びかけても、頭を回らさず聞く耳を持たない。 】 一体どうしたものか


20:先人達の足跡
昔の道心の有る典座達は、その働きと人徳とがおのずと符合していたということを、 銘記すべきである。





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