Last updated on Nov,2003:洋彰庵

【典座教訓 21の3章】

21:三つの心構え

21-1:喜心
禅院の諸々の役職である知事達や頭首達および典座というものは、 その仕事の任務を行なう段になったなら、喜心・老心・大心の三心を保持すべきです。

いわゆる喜心とは、仕事をする時に喜びの心をもって行なうことです。

もし天上世界に生まれていたなら、楽しみばかりに執着してそのほかの時間も無く、 悟りを求めて発心を起こすわけもなく、修行にも未だ縁が無いことを考えてみましょう。 天上世界では最も尊く貴重な仏・法・僧の三宝に供養する食事を作ることなどありません。

もし地獄・餓鬼・畜生・阿修羅等の四悪趣(人間世界以外の悪道世界)に生を受けたり、 またそのほかの八難処(仏に会うことも教えを聞くこともできないとされる八種の境界) に生まれたとしたら、僧として自分の身を守ることを求めても、自分の手で三宝に供養 するための清らかな食事を作って差し上げることも出来ません。 悪道世界によって苦しみを受け、身心を束縛されているから何も出来ません。

たとえ転輪聖王の身の上に生まれたとしても、三宝に供養する食事を作ることも ないならば、結局は何の役にも立ちません。 今この一日一時に典座として精進し、浄食を作ることを願いたいものです。 このように【 永遠の今ここを達観する心 】がすなわち喜心です。


21-2:老心
「喜心」は仕事に接する心のあり方ですが、「老心」は仕事の行ない方の基本です。 調理をする場合には、食材でも道具でも “すべて親が子供を養うときのような、慈しみ深い心を持つべきではなかろうか。” と、道元禅師は説いてます。

自分自身の貧富を顧みず、わが子が大きく成長することだけを思う。 自分が寒いことも自分が熱いことも顧みず、子供のためだけを思って世話をする。 これこそ親が子を思う親切の極みというものである。

★ 自身の貧富を顧みず、ひとえに吾が子の長大ならんことを念う。
★ 自らの寒きを顧みず、自らの熱きを顧みず。子を蔭い子を覆う。
★ もって親念切切(しんねんせつせつ)=親切=の至りなり。


21-3:大心
いわゆる大心とは、その心を大山のようにし、その心を大海のようにし、 一方に偏ることの無い心です。 「喜心」と「老心」を基盤にしつつも、これらの二心を大きく包みこんでいるのが「大心」です。

四季の移り変わりといえども、これを自然の一景色と見なしましょう。 物事の軽重などの相対性についても、一様な目であるがままに執着無しに見る。 このように、何にも執着しない平常心の時節において、全身心で大の字を書き、 大の字を知り、大の字を学ぶべきです。

★ ときに嘉禎三年(1237)王春、記して後来の学道の君子に示すと云う
★             観音導利院住持、伝法沙門、道元、記す。
           観音導利興聖宝林禅寺の住持であり
             伝法の沙門である道元が記した。
                 と典座教訓は結んでいます。

石川力山先生の底本は孫引きできない程の書籍と思われますが、
文亀二年(1502年)3月26日の写本が現在各種出版されている典座教訓の
元の元の元のようです。

附記:
「大心」は一般的な仏教用語の平常心(びょうじょうしん)と同義語です。
道元禅師は『典座教訓』全体を通して、種々の事例をもってくり返し言及しています。 『典座教訓』の結論は「喜心」・「老心」・「大心」の三心ですが、最後のまとめの部分 だけに注目するのではなく、結論を念頭に置いた上で、それ以前に示されている具体的実証例を くり返し読んで吟味し、自分の日常生活に活かしていくようにするのが、『典座教訓』との 正しいつき合い方なのでしょうか? 未だに洋彰庵 部分的にしか理解しておりません。

平常心これ道




[      禅*典座インデックスへ     ]      [      次へ     ]