Last updated on Nov,2003:洋彰庵

【典座教訓と道元さま】

仏教は紀元前五百年頃インドで釈尊(お釈迦様)によって開かれました。 当時の僧侶達は、修行や説法に専念し、食事は托鉢をして、信者たちから頂いた物を食べていました。

食事内容に関する戒律はあまり厳しくなく、肉も布施された物ならば条件付きで許されていたようです。 発祥地のインドでは僧侶自ら料理をすることがなく、したがって精進料理は発展しなかったようです。

その後多くの僧の努力によって、仏教は中国大陸をはじめとするアジア全域に広まりました。

その中で、アジア大陸北方(中国)に伝わった仏教は、中国の固有の思想(儒教等)や、 独特の生活文化の影響を受けて、新しい展開を見せ、多くの宗派が誕生します。

中でも、インドの達磨大師が中国に伝えた禅宗は、坐禅修行を中心に真実の自己に目覚め、 正しく生きることをその本とし、教典中心の論理的修行よりも、自らの実践修行に重点をおきました。 多くの修行者が集まり、托鉢だけでは修行僧の食事が賄えなくなり、 禅寺では僧が畑や田を耕すことになりました。

今までは雑用として考えられていた、掃除や洗濯、炊事なども読経や坐禅と同じように、 重要な修行の一つであると考えるようになったのです。

八世紀頃には百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師が初めて禅宗の規則を定めました。 その規則では、睡眠、食事、清掃などあらゆる行為が仏行であるとされました。

ある日、高齢で地位もある百丈禅師が畑仕事に出かけようとしているのを見たとある小僧、 禅師様に休んでほしいと思い、良心から禅師様の鍬を隠しました。

禅師はその日畑仕事が出来ませんでした。

すると百丈懐海禅師は「一日作(な)さざれば一日食らわず」 (意味は大事な修行である畑仕事を今日はしなかったので私は食事を頂戴する資格がない) とおっしゃり、その日は絶食したそうです。

このように重要な修行の一つとして【食材を育て、その命を丸ごといただく】のも 大切な修行であるとされ始めたのです。

仏教は日本にも伝わり、聖徳太子や貴族公家等の保護を受け広まりました。 当時は最澄の開いた天台宗と、空海の開いた真言宗が中心でした。 鎌倉時代になり、世が乱れ、苦しむ民衆の期待に応えるかのようにして いくつかの新しい宗派が生まれました。

曹洞宗を開いた道元(どうげん)禅師は、若かりし頃天台宗(当時の日本宗教界の中心)の 比叡山延暦寺で修行をされました。道元は延暦寺での修行中に大いなる疑問を抱き、 中国に命がけで渡る決心をしたのです。

道元は中国の港で年配の僧侶「老典座」に逢いました。 その僧侶は阿育王山(広利寺)の典座「食事係」で、明日「大切な日」の食材を買いに来たのだそうです。 道元はその老僧と仏法の話がしたく思い、今日はここに泊まりませんかと誘いましたが、 老僧は、食事の準備が間に合わなくなると断わりました。

道元は言いました。「食事の用意などは若い者にでもさせれば良いではないですか? あなたのような徳のありそうな老いた僧侶が、坐禅や仏法の論議よりも、 食事の準備を優先させて、何か良いことがあるのですか。」・・・

このエピソードは後の「文字とは?弁道とは?」で少し詳しく記載しておきます。

道元が天童山「如浄(にょじょう)禅師の元」に滞在し修行していた時に、 用(ゆう)という典座和尚に“今をはずして一体いずれの時を待つのか” と言われた時、道元の心に「今ここ」がハッキリと芽生えたとされています。 道元のようなエリートには、二人の老典座との出会いによる「開眼」が必要だったのでしょう。

その後、修行に励んだ道元は、とうとう悟りを得て、如浄禅師の証明を受けて帰国しました。 希玄道元から道元禅師の誕生です

道元禅師は、帰国後しばらくは京都で布教しておりましたが、師匠である如浄禅師の 「公家や貴族にこびて、教えを妥協することなく、深山幽谷で本当の弟子を育てなさい」 と言う教えを守り、福井県の山奥に永平寺を開いて、教えを広めました。 仏道とは坐禅や読経ばかりではなく、毎日の睡眠・食事・掃除・入浴など 全ての生活がそのまま修行であり、また、これが悟りであると強調し、その観点から、
◎「正法眼蔵しょうぼうげんぞう」
◎「普勧坐禅儀ふかんざぜんぎ」
◎「学道用心集がくどうようじんしゅう」
など多くの著述「作法書」を残しました。

修行を始めたばかりの者は、この作法を厳守するのが大変だそうです。しかし次第に身に付いてくると、かえってこの作法こそが【無駄を省いた最も美しい振舞いである】と気づくそうです。

典座教訓(てんぞきょうくん)と赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)

道元禅師のおしえの中で、他の宗派にはないものが、 寺の料理係の作法や心構えを説いた「典座教訓」です。   禅寺では、料理係の責任者を典座(てんぞ)といいます。 典座教訓では、献立の立て方、お米のとぎ方、野菜の扱い方、調理と味付の方法まで 詳しく定められています。また、食事を頂くときの作法については、 「赴粥飯法」という書物に定められております。

典座教訓に書かれている内容は、料理の味付についての具体的なレシピや方法ではありません。 もっと根本的な、食材を調理するにあたっての心構えに重点がおかれています。 たとえば、お米を研ぐには、まず桶に穴があいていないか確認し、水は最小限にし、 研ぎながら異物が混じっていないかよく見て、 また研ぎ汁も無駄に捨てずに洗い物などに使いなさい・・ などと詳細な心構えが記述されています。

その他の事についても全て細かく決められています。

良い材料が無いといって手を抜いたり、良い材料だからと張り切ったりしてはいけない。 たとえ道端の草しか材料がないときでも、工夫をこらして、心を込めて調理しなくてはいけない。 常に工夫とこころを忘れてはならないと説くとともに、 いただく側も、高級だ、粗末だと選り好みしてはいけないと説いています。

コインをガチャン・ポン・チンでレトルト食品のスピーディな現代に 「そんな事を言ってたら手間がかかって仕方ない」と思うでしょう。 しかし、その手間を惜しまない心こそ、単なる料理から 仏様や修行僧をもてなす精進料理へと食材が変っていく、重要なこころなのです。

詳細には典座教訓「禅と精進料理」tenzo.netのページを参照されると宜しいと思います。
→ tenzo.net ← 

「道元さま」に関する記事では曹洞宗のホームページに「漫画」で読み物もあります。
http://www.sotozen-net.or.jp/kids/c_dogen/co_d_001.htm
最後のページにリンク貼りつけさせていただきました。

続 次には 典座教訓「講談社文庫980」より
          洋彰庵が抜粋し、略記したものがあります。



[      禅*典座インデックスへ     ]      [      次へ     ]